京都 宝泉院 2016年11月17日
大原の宝泉院へ行きました。ここは2回目(笑)
三千院の近くなんで、ついでに寄ることが多いです✨
ここは抹茶がいただけます
美しい庭園を見ながら✨
ただ、人が多かった(笑)
大きな松が見事な庭
竹林が素敵な庭
枯れ木が気になる…ライトアップのほうが綺麗かもしれませんね
角から撮影
窓からバージョン
中庭
お洒落
宝楽園
地球太古の創世に遡り、その原初の海を想像した庭園だそうです
だから、砂を水に見立てたのか😁
この庭園も素敵
宝泉院はこじんまりしてますが、見どころの多い場所です
宝泉院について
平安初期、比叡山に天台仏教を開いた最澄の高弟・円仁が唐に渡り、仏教修学を終え、帰国し、叡山に密教、五会念仏、等またその法要儀式に用いる仏教音楽「声明」を伝えた。後、1012年寂源は勝林院を創建し、法儀声明の修学地として有名になる。宝泉院は、勝林院住職の坊として平安末期よりの歴史をもち、現在に至っている
と書いてありました(笑)
難しい…
あと、帰ってから知ったのですが…
血天井があるそうです。
関ヶ原の前、徳川家康の忠臣鳥居元忠以下1800人が豊臣の大軍約4万と戦い伏見城で切腹したそうです…家康と元忠は家康が竹千代と名乗っていた頃からの家臣。家康はもし石田三成が挙兵したら、伏見城は間違いなく落とされることはわかってました…辛い決断をしなければならなかったんです。元忠に伏見城の留守を依頼、もちろん、元忠もどういう意味かわかってます。元忠は今後1人でも多くの兵を残すために、家康に伏見城では最低限の人数だけでよいと言ったそうです…4万VS1800…
死を覚悟しつつも、豊臣側は数日で攻め落とせると思っていたのに、奮戦し13日目で落城。
おかげで、関ヶ原の戦いを有利にしたんです。
昔から、三河武士はすごい!忠義がすごい!
家康が天下とれたのも、元忠や三方ヶ原の戦いで戦死した家臣や兵、他の戦いで戦死した家臣などの忠義なんだなと思いました。
元忠たちは切腹をし、その血がついた床などを宝泉院や源光庵などに血天井にして祀ったそうです
自称歴女なのに、知らなかった😅
浅い知識だけなんで(笑)
これを、知って宝泉院見学すればもっと違う感じ方したのにな…
みなさんも行かれたら、天井を見上げてみてくださいね